LGBTQ洋書読書会とか

新設Cチーム企画主催者が、元々は「リバティおおさかを応援する!」というブログでやってましたが、引っ越ししまして、最近ではLGBTQの洋書読書会やその他の情報をごった煮状態で掲載していますv

日本語訳(Chapter 7: A Note about Intersectionality )

読書会のためにあやさんが訳してくださったのでFacebookだけに公開するのもったいないからこちらにも公開!

LGBTQ America: A Theme Study of Lesbian, Gay, Bisexual, Transgender, and Queer History

Chapter 7: A Note about Intersectionality part_1/2(PDF)

 

争点が一つしかない闘いstruggleなどありえない。

争点が一つの人生なんてないのだから。–オードリー・ロード<1>

 

Intersectionalityとは、人種、民族、性別、宗教・信条、世代、地理的位置、セクシュアリティ、年齢、障害の有無、社会階級などのような(時によりアイデンティティーの軸と称される)相違のカテゴリーが交差しながら個人の経験を形成するものであり、アイデンティティは多面的であるという考え方である。これらのアイデンティティは相互排他的でなく、相互依存の関係にある。<2> LGBTQは単一の歴史を分かち合う単一コミュニティではない。ひとつひとつの文字が示す(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダークィア)それぞれのグループは、複数のコミュニティからなっている。<3> 性別gender、世代、地理的位置、民族などの要素はLGBTQのアメリカの歴史に重要な役割を果たしており、アメリカ中にあるLGBTQコミュニティの様々な歴史と、LGBTQコミュニティに関係をもつ場所に方向性を持たせている。例えば、地方に住むLGBTQ当事者の体験は、都会の当事者とは異なる。ゲイの白人ラティーノの体験は、ゲイのアフロラティーノとは異なる。レズビアン中流階級アフリカ系アメリカ人の生活は、レズビアンの労働者階級アフリカ系アメリカ人とも、レズビアン中産階級白人とも異なる。

 

intersectionalityという考え方は新しいものではない。ソジャーナ=トゥルースは、現在「私は女ではないの?」として知られる1851年の演説のなかで、女性であること、黒人であること、奴隷であったことのintersectionsについて述べている。<4> 1960―70年代、黒人女性やメキシコ系女性は自分たちの生活のintersectionalityについて明確に語り、人種と性別を相互排他的なカテゴリーとしてとらえていた主に中産階級の白人女性たちによる運動から非白人女性としての経験が無視・軽視されたり消去されたりしているなか、黒人フェミニストやメキシコ系フェミニストの運動を形作っていった。彼女たちの生きられた経験lived experienceのなかでは、非白人people of colorとしての、女性としての、そして非白人女性としての抑圧のからみあいを解くことは出来なかった。<5> intersectionalityという用語が活字になったのは、キンバリー=クレンショーが差別禁止法、フェミニスト理論、人種差別に反対する政治への単一軸によるアプローチから好ましくない影響があると、法律ジャーナルに記したことが最初である。<6> 以来intersectionalityは、歴史、美術・建築史、人類学、地理学、社会学、心理学、法学などの分野で重要な概念となった。<7>

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トゥルースは1851年5月29日、オハイオ州アクロンのノースハイストリートとパーキンスストリートの角にあるオールドストーン教会で開かれた女性会議で演説した。その時の演説がいくつかのバージョンで残っている。「私は女ではないの?」という言葉が入った、フランセス=デイナ=バーカー=ゲイジの記憶をもとにして出版されたものもいくつかある。もっとも古い出版されたバージョンはマリウス=ロビンソンの記憶によるものだが、そこにはこの文言は登場しない。See Corona Brazina, Sojourner Truth’s “Ain’t I a woman?” Speech: A Primary Source Investigation (New York: RosenCentral Primary Source, 2005); Kay Siebler, “Teaching the Politics of Sojourner Truth's "Ain't I a Woman?'" Pedagogy 10, no. 3 (Fall 2010): 511-533.

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place-basedのリサーチや歴史保全にとってintersectionalityを理解することが重要なのは、そうした相違の軸がコミュニティーと関係する物理的な場所に影響を与えることがあるからである。さらにこれらの軸は、人やコミュニティの場所との関係性に影響を与える。住居や商業ビルを賃貸でなく所有する人は、例えば、ジェントリフィケーションなどの結果、住宅価格が上昇してもその地域に留まっていられる可能性が高い。人種や性的志向に基づく所得格差を考慮したintersectionalなアプローチを使うと、レズビアントランスジェンダーの人たち、なかでも他のグループに比べて低所得者の割合が高いため住宅の所有が無理な非白人の場合、ビル購入に投資できるほど収入に余裕のある人が多い中流階級の白人ゲイ男性に比べて、地域からすぐに追い出される傾向にある。同様に、レズビアンは(女性なので)ゲイ男性に比べて可処分所得が低いため、レズビアン向けのクラブやバーの数が少ない。白人女性も非白人の女性も、そして非白人全体を見ても、私的な空間で社交することが多い。<8>

 

placesの意味もさまざまなLGBTQコミュニティによって異なる。例えば、女性オンリーの空間として1976年に創設されたMichigan Womyn's Music Festivalは女性の土地、女性の音楽、女性によるコミュニティーベースの組織の歴史上、重要なイベントだった。しかし、この音楽祭には同時に、トランス女性を排除した歴史がある。<9> これがきっかけとなり、音楽祭敷地のすぐ外に1991年、トランスジェンダー女性とアライによってCamp Transという抗議のキャンプ地が開設された。Michigan Womyn's Music Festivalはコミュニティによってその意味するものが違ってくる。ここでインクルージョンと可視化が行われた場所を経験する一方、抑圧と排除の経験をした者もいる。<10>

 

Intersectionalityは、個人やコミュニティの声を封じ込めたり、経験を不可視化したりするといった形で行われる認識論的暴力(私たちが世界を理解し知るやり方から人間を排除する)を防ぐ手段として紹介されてきた。<11> LGBTQの歴史に存在する非主流派alternativeの声を無視しようとする誘惑は強い。「ある特定のゲイやレズビアンに与えられた新たな機会を考えると、忘れようとする(ゲイやレズビアンの怒りや屈辱の歴史を忘れ、ゲイのノーマライゼーションの上げ潮に乗り切れていない人たちの苦しみの現状を無視する)誘惑は、以前に増して強くなっています。」<12> ノーマライズされた主流ゲイライツ運動と、当然その歴史から除外された人たちには、程度の差こそあれ、低所得者、障害をもつ人、非白人。高齢者、女性、トランスジェンダーの人、ドラァグクイーンバイセクシュアル、地方生活者、性行為が社会的に容認される範囲(ゲイル=ルービンが「特権圏」と呼ぶもの)外の人が含まれる。<13> ことさら阻害されているのは、排除軸の一つ以上をアイデンティティとして持っている人々である。<14> これらを排除と抑圧の軸と完全に理解するには、研究者が白人性whitenessと中流階級アイデンティティ(さらに、私たちの社会で特権を得ているとされる他のアイデンティティについても)のintersectionalityに注意を払うことが必要だと、シンシア=レビン・ラスキーは指摘する。<15> (ゲイ、白人、都市に住む男性)といった比較的よく目にするグループの経験をintersectional的に再評価することによっても、LGBTQの歴史とその米国史のなかの役割について、より微妙な意味合いと正確な理解が生まれる。

 

              白人、中―上流階級、ヘテロセクシュアル、男性などを含む特権を持つ人々のアクションに主に焦点を置いた支配的ナラティブdominant narrativesのなかでしばしば話す機会を奪われる人たちの経験や意見を含めるような歴史へのIntersectionalなアプローチによって、より完全に近くニュアンスも含めた理解が出来るようになる。民族や労働者階級のような過去に排除された軸を加えたintersectional的な歴史へのアプローチがより完全な歴史像を提供した例として、女性の権利に関する研究が挙げられる。女性の権利における支配的ナラティブによって3つの「波」が認められる。第一波は1848年(ニューヨーク州セネカフォールズで開かれた女性の権利に関する第1回会議)と1920年アメリカ合衆国憲法修正第19条が可決され、女性に選挙権が付与)の間、第二波は1960年代から1970年代にかけて、女性が職場、医療、経済的平等などの分野における性差別に幕を下ろそうと女性が努力していた時代に始まった。そして女性運動のなかで、intersectionalityに対してより積極的かつメインストリーム的なアプローチがあった1990年代に始まった第三波である(図1)。このフェミニストの波のナラティブは主に、中流階級の白人女性の、女性の権利の唱道とアクティビズムからの恩恵を獲得する経験に基づくものである。例えば、女性は1920年に選挙権を獲得したものの、南部諸州では、1964年の公民権法成立まで、ジム=クロウ法によってアフリカ系アメリカ人女性(男性も)が投票することは不可能だった。ネイティブアメリカンの多くも、性別にかかわらず、1924年にインディアン市民権法が可決されるまで、選挙権は認められていなかった。

              フェミニズムにintersectional的アプローチを取る最近の研究は憲法修正第19条が可決された後も女性の権利運動が消滅しなかったことを認めている。<17> ベティ=フリーダンの著作『新しい女の創造』は、彼女自身の郊外に住む中流階級の白人主婦としての観察と経験に基づいており、左派労働組合機関紙のジャーナリストとしての経験には言及がない。<18> 彼女の著作はしばしばフェミニズムの第二波に火をつけたとされるが、そうした評価は、選挙権獲得後もフェミニストの目標に向かって絶えず努力を重ねてきたアフリカ系アメリカ人女性や勤労階級の女性(と彼女たちの白人中流階級の仲間)の経験や達成したことを無視するものである。<19> 1920年以降、選挙権獲得に注力してきた女性たちは労働や社会福祉立法にその関心を移した。なかには政党政治システムや政府内部で働くことを選ぶもの、民間団体や労働オルガナイザーに転じたものも現れた。修正第19条が可決される前から労働・人種の社会正義運動justice movementsに携わっていた女性たちは、その運動を継続した。その結果、1961年に女性の地位に関する大統領諮問委員会が設置、1963年に「アメリカの女性たち:女性の地位に関する大統領諮問委員会報告」が発表され、1966年に創設された全米女性連盟(NOW)の基礎を築いた1964年公民権法が可決されるに至った。<20> (創立メンバーの一人にベティ=フリーダンを擁する)NOWは、196年代と70年代の女性の権利に関する運動の先頭にたった組織である。働く女性と労働オルガナイザー、さらに人種の社会正義racial justiceの運動に関与する女性たちを含めてintersectional的に分析してみれば、フェミニズムの第二波が20世紀初頭の社会改革運動とは連続しておらず、そのルーツは白人の中流階級の経験にあるとする考え方が間違っていることが分かる。